遠藤が「考えてることが違うので自分が両者の架け橋になれればいい」という趣旨のことを言っていた---
 はたして、そんな風にわりきれるものなんだろうか?それほど国内組の結束が固いのだろうか?海外組≒ヒデなんだと仮定すると、ヒデの目指すものと、国内組のサッカーが違うということになる。だから”ピッチ上で”話合わなきゃいけない。ジーコが監督として優秀かどうかはともかく、これまでの日本のサッカー(あるいは文化)になかったやり方は、当然のように議論を呼ぶ。未知なるものへの不安といっていいかもしれない。ジーコのやりかた(話し合え!)は非常に当たり前なことではある。
しかしまあ、なんともへんな言葉ではないか?何故こうも人間を組み分けしたがるのだろうか?個人がお互いの意見をぶつけ合うのではなく、あるコミュニティーを形成しないと安心できないとはいやはやなんとも。このへんが 日本2chアメリカブログ とか言われちゃう所かなほんといやになるね