U-23 2-3 イタリア (ボロス)
 谷間の世代と言われたこのチームは当初、山瀬のチームといわれていた。大怪我や松井の台頭があり、結局最終メンバーには選ばれなかったがトップ下には山瀬がいた。彼はオリンピックを一切見ていないという。
 山本ジャパンのオリンピックが終わった。敗戦の弁は、今後に繋がる、というものだった。アテネ経由ドイツ行き、というお題目を唱えてきた山本には、当初から用意された言葉だった。ついに、本物の’監督’にはなりえなかった、という気がする。氏の備忘録なる書を読んだ時、この人は、優秀なコーチかもしれないが、監督としてはいかがなものか?と思っていた。とても日本人的な感性の持ち主である。備忘録からは、焼き鳥屋で上司の愚痴を言うサラリーマンの姿しか想像できない。甘いマスクとテレビ向きの解説、評論、マスコミの受けもよく、協会としてはいわゆるエースだった。しかし勝てなかった。死のグループだったのかもしれない、高原を呼べなかったのは大いなる誤算だったのかもしれない、審判のジャッジが不可解だったかもしれない、とにかく勝てなかった。2002年のトルコ戦を氏は、トルシエの暴走と断じた。今日の敗戦は誰のせいだろう。メダルに手が届いたならば、次のA代表の監督の座は当確だったことだろう。その意味でアテネ経由ドイツ行き、はまさに自分自身に向けられていた言葉だったのである。もちろん、そんなことは考えていないと彼は言うだろう。その程度の’監督’でしかなかった。今日彼はなにを表現したかったのだろう。どこに勝機を見ていたのだろう。最後の交代の森崎に何をさせたかったのだろう。
 玉際に強くなれとは巨人の人の言葉だったか。数センチの差が世界との差。パラグアイにもイタリヤにも互角に戦えていたとは思う。しかし、安定していると言われていた守備陣は2試合で7点も奪われた。ほんのワンチャンスをゴールに叩き込むことができるかどうかが勝負を分ける。奪われた得点にはミスが原因となったものもあるが、しょうがない、と思わせるものがほとんどだった。守備陣は納得していないかもしれない。しかし現実である。小野は主審に食ってかかった。あんな姿を見たのは始めてだが、チームの中心として迎えられ、満足なパフォーマンスを見せられないまま試合が進む事に苛立ちがあったのかもしれない。試合終了のホイッスルを聞くと、大久保の瞳から涙がこぼれた。あの悪童の目から涙は驚きだった。高原がいない事でチャンスが巡ってきた高松も大泣きだった。たくさん失点もしたが、2試合で5点も奪っている。でも少し足りない。おしなべて、選手たちは大変よくやったと思う。あと数センチ足りなかった、それだけのことだ

追記:04J12nd好調の浦和にあって、オリンピックへ出場が叶わなかったことの鬱憤を晴らすかのように、活躍中だった山瀬が再度怪我をしてしまった。左前十字靱帯断裂で全治6ヶ月である。膝周辺の怪我は、小倉の例をみるまでもなく、まさに選手としての寿命を奪う。しかし、彼はコンサドーレ時代に右の膝を怪我し、そこから復活している。焦らず、じっくりと直してほしい。復帰をこころより願う。