2004
Sep
09
Posted by: iichii
インド 0-4 Japan (コルカタ)
 かつてはカルカッタと呼ばれた場所、ソルトレークスタジアムは10万の観衆がつめかけた(12万人収容)。ハーフタイムには停電があった。60分以上で試合が成立し、45分以上の中断で無効試合となってしまうようだ。結局、30分の遅れで後半がスタートした。
 暑さと湿度。アジアカップで苦しめられた環境が、インドでも待ち構えている。経験を生かし、省エネサッカーを繰り広げる日本。個々のレベルの差もあり、取り立てて見るべき内容ではなかったが、あれだけ引かれた中で、4点も取れたのは大成功ではないだろうか。攻めに掛かった後、中盤がぽっかりと空いてしまい、危険な場面もあったが、インドのレベルでは、重大な局面にまで至らない。最終場面での精度がやはり大きく欠落している。これが中東や韓国といったところが相手の場合はもう少し、したたかに攻められていたことだろう。攻撃面では今、FWが宝庫といえる。鈴木の強さ、高原のボールを引き出す動き、そして何かをやってくれそうな久保。今回は召集されていないが、玉田と中田英のラインも是非見てみたい組み合わせである。得点シーンを振り返ってみても、FWが詰めて、セットプレー、3列目の飛び出し、サイドを崩して、と必須事項をきちんとこなしている。
 当地でのジーコ人気は大変なものらしい。ハーフタイムの中断中も何と警備の警官までもがジーコにサインを求めていた。10人以上のサインに応じたジーコもジーコだが、だれか止めないのだろうか?しかしながらジーコ采配は前向きで、気持ちの良いものだった。結果がでているからこそ、ではあるが、常に勝とう、得点を取ろうという気概が伝わってくるようなものである。それに応える選手達。一時期サブのメンバーのモチベーションという問題が囁かれたが、アジアカップ以来、選手達のハートも掴めているのだろう。
 相手が相手だけになんとも評価のしにくいところではあるが、何にしても、次の試合で勝ち点1を積み上げれば、1次予選は突破できる。マスコミが天王山と煽るオマーン戦に向けて、確実に勝ち点と得点を奪った。

2004
Aug
20
U-23 1-0 ガーナ (ボロス)
 言葉は悪いが、オリンピックは将来のスターのお披露目の場でもある。イタリアのジラルディーニョやアルゼンチンのテベスなどは既にその名を轟かせている。この大会中に新たなスターはでてくるだろうか。その意味でも少しでも上位に食い込み、スカウトやエージェントの目に留まることが必要である。
 日本代表へは何人の選手が引上げられるだろうか?ジラルディーニョにはやられてしまったが、茂庭の対人能力は高い。阿部のFKはやはり一級品だし、大久保の動きは見るものを引き付ける。守備的MFとして存分な動きを見せた今野も将来が楽しみではある。山本”コーチ”の戦術に合わなかった石川も、サイドの選手としてはおもしろい。その意味で、最後の試合でサッカーセンスのよさを見せ付けた菊池(ジュビロ)は、今後が非常に楽しみだ。あのアーセン・ベンゲルをして、菊池の才能に驚いたという。まだまだ線が細いし、高いレベルで90分安定した力を発揮するのは難しいようだが、将来性という意味ではピカイチではないだろうか。
 最後に勝つ事ができた。DFは失点をしなかったし、FWが得点を奪う事もできた。監督の采配や交代には疑問符がつきまくりだが、勝ち点3を得た。ギリシャに行った選手も、行けなかった選手もこれからが本番だと思う。やはり、たかがオリンピックでしかないのだ。世界のフットボールシーンでは、所詮、若手の大会なのである。ほんの数年前に比べ、世界へ羽ばたくチャンスは格段にあがっている。曰く、各国の力の差の少ないという認識、曰く、アジア市場という視点、曰く、中田をはじめとする先駆者達の切り開いた道。こうした好条件を生かすのは、選手たち自身なのだから。だからこそ、そのチャンスを潰してしまった監督は、きちんと責任をとってほしいし、その重さをかみ締めてもらいたいものだ。

2004
Aug
16
U-23 2-3 イタリア (ボロス)
 谷間の世代と言われたこのチームは当初、山瀬のチームといわれていた。大怪我や松井の台頭があり、結局最終メンバーには選ばれなかったがトップ下には山瀬がいた。彼はオリンピックを一切見ていないという。
 山本ジャパンのオリンピックが終わった。敗戦の弁は、今後に繋がる、というものだった。アテネ経由ドイツ行き、というお題目を唱えてきた山本には、当初から用意された言葉だった。ついに、本物の’監督’にはなりえなかった、という気がする。氏の備忘録なる書を読んだ時、この人は、優秀なコーチかもしれないが、監督としてはいかがなものか?と思っていた。とても日本人的な感性の持ち主である。備忘録からは、焼き鳥屋で上司の愚痴を言うサラリーマンの姿しか想像できない。甘いマスクとテレビ向きの解説、評論、マスコミの受けもよく、協会としてはいわゆるエースだった。しかし勝てなかった。死のグループだったのかもしれない、高原を呼べなかったのは大いなる誤算だったのかもしれない、審判のジャッジが不可解だったかもしれない、とにかく勝てなかった。2002年のトルコ戦を氏は、トルシエの暴走と断じた。今日の敗戦は誰のせいだろう。メダルに手が届いたならば、次のA代表の監督の座は当確だったことだろう。その意味でアテネ経由ドイツ行き、はまさに自分自身に向けられていた言葉だったのである。もちろん、そんなことは考えていないと彼は言うだろう。その程度の’監督’でしかなかった。今日彼はなにを表現したかったのだろう。どこに勝機を見ていたのだろう。最後の交代の森崎に何をさせたかったのだろう。
 玉際に強くなれとは巨人の人の言葉だったか。数センチの差が世界との差。パラグアイにもイタリヤにも互角に戦えていたとは思う。しかし、安定していると言われていた守備陣は2試合で7点も奪われた。ほんのワンチャンスをゴールに叩き込むことができるかどうかが勝負を分ける。奪われた得点にはミスが原因となったものもあるが、しょうがない、と思わせるものがほとんどだった。守備陣は納得していないかもしれない。しかし現実である。小野は主審に食ってかかった。あんな姿を見たのは始めてだが、チームの中心として迎えられ、満足なパフォーマンスを見せられないまま試合が進む事に苛立ちがあったのかもしれない。試合終了のホイッスルを聞くと、大久保の瞳から涙がこぼれた。あの悪童の目から涙は驚きだった。高原がいない事でチャンスが巡ってきた高松も大泣きだった。たくさん失点もしたが、2試合で5点も奪っている。でも少し足りない。おしなべて、選手たちは大変よくやったと思う。あと数センチ足りなかった、それだけのことだ

追記:04J12nd好調の浦和にあって、オリンピックへ出場が叶わなかったことの鬱憤を晴らすかのように、活躍中だった山瀬が再度怪我をしてしまった。左前十字靱帯断裂で全治6ヶ月である。膝周辺の怪我は、小倉の例をみるまでもなく、まさに選手としての寿命を奪う。しかし、彼はコンサドーレ時代に右の膝を怪我し、そこから復活している。焦らず、じっくりと直してほしい。復帰をこころより願う。

2004
Aug
08
Japan 3-1 中国 (北京)
 前回のレバノンに続き、日本がアジアチャンピオンの座に着いた。アウェーでの勝利、そんなフレーズがぴったりくる大会であった。ホストカントリーとの対戦ではなくとも常にブーイングを浴び、蒸し暑い重慶、荒れたピッチの済南、移動、試合間隔の少なさ、判定の不自然さなどなど、そんな困難な状況をことごとく跳ね返した。ジーコにとっては辛い出発であったに違いない。8人をセレクション出来なかった、と語るように、メンバーは充分でなかったはずだ。しかし、大会前から決してそのような不満は表すことがなかった。さらに彼は常にメンバー一人一人に声を掛けたという。勝ち進むにつれ選手たちから、「チームがまとまっている」「一丸となってきてた」との声が聞こえるようになる。これは、チームマネージメントが成功したことを意味する。このことは優勝した一因として評価されるべきではないだろうか。
 中国というチームのこれまでの戦いぶりをみていて、まだ日本には追いついていない印象をもっていた。確かにフィジカルは強く、ボール扱いもうまい、戦術的にも洗練されてきてはいる。しかし、クリエイティビティーという側面から見ると、いささか物足りない。オマーンの躍進を脅威と見る声がある一方で、彼らにはゴール前での正確性と共にそこにいたる創造性が、決定的に不足している。同じ事がこの中国にもいえる。サイドからの崩しと強烈なロングシュート、という形あるもののこれらは相手のプレシャーが弱い時にしか発揮されていないものだった。MVPは中沢だと思っていたので驚いたが、日本には中村がいる。そして彼はジーコから自由をあたえられているのである。中盤の想像力という点でいば、イランや韓国に一日の長があるだろう。
 試合のほうは、高い守備ラインの裏を狙う日本と、3バックのサイドを突く中国の攻防という展開だった。今大会安定している日本の守備陣は中国のサイド攻撃をうまく封じ込めた。そしてこれまた脅威というレベルにまで引上げたセットプレーから得点をし、ホストカントリーを打ち破った。2点目は神の手にも見えるが、3点目の玉田の抜け出しはまさに”はまった”ものであった。全体的には力の差は歴然であったのだ。
 これで日本はドイツWcup前のコンフェデレーションズカップに参戦する事ができる。予選を勝ち抜くことは困難だが、もし突破できれば、コンフェデは格好のトレーニングになる。このメンバーから何人がWcupに行けるかわからないが、今回の優勝はまさに未来に繋がるものであったといえるだろう。万難を排し最高の結果を残した監督と選手に敬意と感謝を。そして本当におつかれさま。

2004
Aug
07
 全日本少年サッカー大会の決勝はマリノスJr.が制した。時代を映す鏡かもしれないこの大会は、このところJの下部組織であるクラブチームが強さを発揮している。15歳でJデビューを果たした森本もベルディJr.の一員として活躍していた。長く静水FCがこの年代の常勝チームで、代表にも静岡の選手たちが多く選出されている。この清水FCを倒そうと、各県の代表チームは県の選抜チームを作るようになる。
 そんな時代に私もこの大会に出場することが最大の目標だった。よみうりサッカー場の人工芝で試合をすることがひとつの夢であったのだ。今のように給水タイムなんてなかった。審判は地元のチンピラみたいに怖いおじさんだった。指導方法だって先生の情熱だけだったのだとは思う。ひー君やきゅうちゃん、やまんちゃやてらにいがいた、そしてそんな仲間の一人に中西哲夫氏もいた。合宿や遠征、負けて泣いたり勝ってみんなで喜んだりした。結局、出場することは叶わなかったが、友達や先輩は出場した。羨ましかったものである。しかし、この頃の思い出は大切に心の中に残っている。
 いまでもそうだが、私は身長が低かった。28回大会の決勝戦は、技術のマリノス対高さのレイソルというような図式だった。いわづもがな、マリノスを応援していたのだが、160cmの長身を揃えるレイソルに対し小柄ながらうまさと速さのマリノスは、140cmのCFが試合を決める得点を挙げた。いまさら分かってもしょうがないが、私にはスピードが欠落していた。しかし彼にはスピードがあり、頂点を極めた。
 それにしても、クラブチームの施設の充実ぶりには大変驚いた。美しいグランド、トップチームの選手が近くにいる環境、ビデオなどの映像の充実、指導者たちも洗練された教育を受けた方々なのだろう。恵まれた環境を手に入れるにはしかし、数十倍の競争に勝たなければならない。ベルディーの場合は50倍の競争率だそうだ。一方でグランパスはどうしてしまったのだろう。愛知FC(中西氏も所属していた)が安定して全国の上位に食い込んでくる。今後もJの下部組織が強くなるのは必然ではあると考えられるが、こうしたその他の組織には是非ともがんばってもらいたいものである。