21
製造:ハピネット
発売日:2006-10-27
(おすすめ度)
ストーリー
狼少年のお話。寂しかったんだと思うよ、きっと。
レビュー
娯楽を求めすぎる事に対する警笛だとか読者が常に懐疑的に物事を見つめる必要性という事と、記事発行団体の検閲制度といのは別問題だ。我々は騙された、、、そうやって責任を押し付けることは簡単だ。どの関係者も自らの無知や制度の不備を指摘しない。それら制度に限界があるというのなら、それはそもそも欠陥のはずだ。結局の所、愚かにも社会性を失ってしまった少年の嘘、に対応できる力が無かったということを露にしただけではないだろうか。決してこの少年を擁護したいわけではない。少年をかぼうべきだったとも思わない。なにか問題が起こった時に社会があるいは組織がどうやって事件を結論づけていくか、を考えるとあまりにプアーな対応だという気がする。彼ら若者が世間の表舞台に立てるのは、それこそアメリカという国の力の源泉だ。俗世にまみれる事のない柔軟な発想と行動力、そういった力を最大限に生かすことは、安定した社会基盤の確立が困難であるものの、一方でヒーローを生み出し社会に希望を与える。儒教的な道徳観に裏打ちされ圧倒的に安定した社会においては、ヒーローの出現はまさに羨望の的だ。しかし、いつの時も希望を失わない国、チャンスはあると思わせてくれる国、社会的にそうした思想やシステムを採用する国が三流の政治家しか居ない国と同じように「遺憾である」みたいなことを言っているのには少々落胆の思いがぬぐえない。そういう社会だからこそ、洗練されたチェック機構だとか問題に対する迅速で根本的な対応、といった部分を見たかったな。
ロザリオ・ドーソンは『25時』ではめちゃくちゃイケてるのに、野暮ったいねぇちゃんだった。よ。
助演男優賞はピーター・サースガード
17
ストーリー
リチャード・マシスンの『地球最後の男』の3回目の映画化。2枚組みのdvdでは別バージョンのラストがあるらしいよ。とにかくね、ウィルがね、世界を救うのだよ。伝説なんだよ。
レビュー
どうやら、1971年の『The Omega Man』を踏襲した作品のようだ。ハリウッドの娯楽大作として多くの広告宣伝費を計上するのであれば、こうした、主人公が英雄になるお話、であるほうが良いだろう。それであるが故に、別バージョンのラストもそうだし、1964年の『The Last Man on Earth』を見たいところ。
原作の『地球最後の男』では、唯一人生き残り治療薬を研究している主人公こそが恐怖の対象になっている、という逆転の発想がテーマになっているようで非常に興味をそそられる。自分と異なる他者におびえ疑心暗鬼に陥ることの恐怖を現したのだという。まさにおせっかいというかありがた迷惑を理解しないややこしい男だ。一方的な価値観の押し付けが受け入れられず、「お前ら病気なんだ、治せるよ」って言っても聞いてもらえなくて、自爆テロしちゃうって、、、なんだかとっても現代的で皮肉に満ち溢れてるよね。
12
ストーリー
圧倒的なパワーで管理しようとする側、そこから必死で逃れようとする者、それを興味本位で楽しむ人々。それぞれを軽いタッチで表現しつつ、強烈に皮肉る。
レビュー
基本的にはメディアの暴走とか、それを支える大衆の覗き見願望とかそういった際限のない欲望の危険性を表現したものだ。人がテレビという媒体とどう向き合って行くか、を問いかけている。所詮は”消費”でしかなく、強い刺激を求め、飽きれば捨てる、そういう行動様式をこそ笑っている。
ジム・キャリーは作られた世界を捨ててリアルな世界に行くのだけれど、最後にお辞儀をする。このお辞儀は、彼もまた作られた登場人物のひとりとして29年間を演じてきた事の表れだとするならば、やっぱり視聴者(劇中人物ではなくこの映画を見ていた我々)は上手く騙されちゃったということになりはしないだろうか。
そこまで穿った見方をしないにしても、経済的な成功を背景に管理する側と自由を求める個人いう構図は決して虚構の世界ではない。非人間的な要求も例えば成功のためというような言葉にかき消され、一方で、地球の裏側に楽園を夢見る労働者は、なんと見慣れた光景か。だからこそ、一見、脱出の成功が感動的に見えるのだけれど、そのことと、死んだはずの親父との再開に違いを見つけなければならない。。。どこにある?
ジム・キャリーがね、親戚のおじさんに似てて。。。どうにかならんものかと。。。
06
ストーリー
あ!思い出した!そーいえば、俺が自分でやるっていったんだった。てへ。。。(談:マットさん)ってゆー映画。
レビュー
マットさんてばとってもシャイで、ちっともお話してくれない。私ばっかりしゃべっちゃって馬鹿みたい!と。。。ハードボイルドの条件の一つに、心情を直に語らせるのではなく物や状況・人物の動きによってそれを表す、ってのがあるのだけれど、まさにこれが充て嵌る。無駄な言葉を発しない。全然しゃべらない。フランカ・ポテンテの弟に彼女の死を伝える時でさえそうなのだ。あんなのじゃ全然分らんと思うぞ。とかくアメリカ映画が説明しすぎって言われることの裏返しだろうか?
いっつもそうなんだけど、あの国は、自分で育てて都合悪くなったから捨てようと思ったらもの凄い強くなっちゃって、どうにもならない泥沼に入り込む、というようなことの繰り返しなんだけど、そんな皮肉が込められていると見るのは穿ちすぎか。
監督のコメンタリーでアクションは基本的に追いかけっこ(鬼ごっこだったか?)だ。って言ってたのが興味深かった。
1作目はフランカとの愛の物語だったと思うのだけれど、2作目以降完全にアクションになった。もちろん1作目も追いかけっこなんだけれど、何が違うかというと、頭脳の戦いという部分にフォーカスを移した事だと思う。CIA上層部との知の駆け引きみたいな事にその追いかけっこの目的が変質した。だから、2作目以降は思い出としての愛はあっても、現実のsexを必要としていない。ゆえに、ジュリア・スタイルズとの関係は深まらないのだ。監督が変わったのもあるけど、マットさんの性格がよりマシーンとして強調された。そうすることでより一層人間としての苦悩を浮かび上がらせたのだ。続編として上手に素材を生かしたってとこでしょうか。
28
ストーリー
なんだか物凄い人気作品。おっさん二人の愛の物語。人の心の中の思いは誰にも奪えない・・・のだ。
レビュー
うーん。感動した?そう?あ、プリズン・ブレイクⅠは明らかにこの映画に影響受けてるね。爽快感があるとか涙が出るとかそういう映画なのか?むーん。悪くないけどね。日本てばお酒に寛容な社会だからちょっとあり得ないというか違和感があるのは、屋上でビールを勧められて「酒はヤメタ」って言う。煙草をやめたとは言うけど、表現としておもしろいなと。酒をやめるって言葉に出して、ホントに飲まない。いや、ここは無理しても飲む所でしょ、空気よめよと思う。でも相手も「あぁ、そう」ってあっさりしてる。これはなんか心に残るシーンだね。いや、そういうことじゃないな。。。まぁただ、希望を捨てないで生きることが大切とかこつこつ努力して諦めなければ道は開ける・・・だとかそういうことは言ってないと思うんだよね。むしろそういう甘い幻想みたいなものは哀しいかな、刑務所内だけでなく人の世では通用しないのだよ、甘くはないよ、と言ってはいまいか。
そうではなくて、あくまで ”自由” ってものへの賛美って気がする。
例えば音楽の持つ魅力みたいな感傷的な部分を刺激され、例えば図書館や教育みたいな教条的な部分を刺激される。そして最後に、刑務所というステージを象徴的に見せられる。閉じ込められている(自由を奪う)場所ではなく、自ら拠って立つ場所(安住の地)としてみせることで、逆説的に、より自由への渇望を喚起させられたのではないだろうか。
アカデミー賞ではモーガン・フリーマンが主演男優賞ノミネートされている。自由を得ようと必死に足を踏み出した男を描いたのだとするならば彼が主演だという理解も頷ける。いずれにせよ、結局の所、Freedomという名の下にいろんなことが許されている。まるで何処かのお国ですな。しっかり目を見開いていたいですね。